道中漂流記

将来の夢はそぞろ神

闇に燃えし篝火は

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前々回から前回までの記事に一週間をかけたので、なるべく短いスパンで記事を上げようと思った今日この頃。この記事はネタバレを含むので新世界よりを見てない人は一度ブラウザバックして本作を見てから来て、どうぞ。

新世界よりについて

まずこのタイトルだが、これは2012年くらいに放送された深夜アニメ「新世界より」の24話のタイトルから取ってきたものである。「新世界より」は深夜アニメには珍しい一般小説が原作になっており、2008年にSF大賞を受賞したことから、放送前の期待は物凄く高かったのだが、制作の人員不足が原因で、早くも4話か5話くらいで作画崩壊寸前まで行ってしまい、存在感が無くなったなんとも惜しい作品である。しかし、原作が
良いだけあって原作未読でアニメを完走した視聴者は、もはやそこらへんの駄作ラノベを見れなくなってしまうくらい舌が肥えただろう。私自身もその一人である。

・「面白さ」の源流

新世界よりの面白さは既視感のある未来の描写と設定、革命指導者、1000年を経てもなお変わらない人間中心主義にあると考える。著者の貴志祐介の論理的な現代の考察から導いた未来予想図は、呪力の存在という非現実的な物を前提とするものの、作中の統治構造や倫理観は我々が歩む未来そのものである。あー、立正安国論なんてインチキ予言書を書きやがった日蓮先生に見せてやりたい。鎌倉時代に新世界よりが公表されていたら今頃新世界教が出来ているだろうことは言うまでもない。多分、西暦元年にイエスキリストが生まれず、司馬達也が生まれていたら、今頃は司馬達也教が世界の主流になっているだろうと妄想するのと同じ次元の話なんだろうが。

・優位の保守、劣等の革新

さて、この作品はスクィーラ側に立って見るか、それとも主人公側(人間)に立って見るかで感想が大きく2つに分割されるだろう。しかし、実際にスクィーラ側に立った視聴者はほとんどいないと見える。なぜなら、我々が人間という種族であり、それ故に他の種族に対して優位を取られることを易々と認める人なんて誰も居ないからである。上に立つ者とは基本的に何かを背負っていて、1つも取り零したく無いゆえに維持、保守を好む。もし白人排他主義の黒人革命指導者なるものが存在したら、いの一番に暗殺の対象に上げられるだろう。こんな現象は世界中に遍在している。日本においても韓国友好運動を全面に押し出している政治家が他の大勢に侮蔑の対象として上げられているし、少し違うが、某ゴールデンタイムのアニメだって八百屋の息子が青狸ロボありきの飼い主を苛めている。そういった埋まるはずのない隔絶を貴志祐介氏は書いているのだ。267歳の婆がスクィーラに対して下した判決と周りの侮蔑を見れば一目瞭然であろう。

・カリスマ的支配vs伝統的支配の構図

スクィーラ最大の失敗は、間違いなく奇狼丸を味方に出来なかったことだろう。
革新を大々的に上げたために、伝統的秩序を金科玉条のようなものとしていた奇狼丸と対立してしまった。そもそも、最終話で奇狼丸が囮となった理由は、人間絶対主義から来たのではなく、大雀蜂コロニーの存続と繁栄を約束してのことである。あの場で寝返りをうち、スクィーラに味方すれば、自身の王権を維持するために、大雀蜂コロニーが洗浄されるだろうし、残った大雀蜂コロニーの残りも奴隷にされるだろう。スクィーラ政権の下、再び遺伝子操作をされて、攻撃抑制なんてものを植えつけられたら元も子もない。寝返りを打たざりしは、かようなことも予測してのことからだったと考えられる。また、スクィーラと奇狼丸の対立の原因はクィーラの伝統無視、つまりコロニー共同の母系制社会の非合理性を見抜き、女王をロボトミー手術して、孵化機(インキュベータ)化したことにあるだろう。スクィーラの起こした近代化が奇狼丸に相容れなかったのだった(特に倫理的な面で)。この対立から近代的合理主義礼賛文明を見直す良い機会になったと考えた。伝統と革新の対立は止揚できず、ただ妥協点を探すに限る。

以上、原作未読アニメ組による新世界よりの感想を終える。予防線を貼るが、私は2012年にリアルタイムで見たあと、半年後にもう一回見て、まとめサイトの感想欄をざっと回っただけで、その他はオリジナルのため、読み込みが足りないだとか書き手の読解力がチンパンジー並みだと思った人は自分でブログや掲示板で感想や考察を書くことをすすめる。ついでに私のコメント欄にurlを貼ることもすすめておく。

「想像力こそが、すべてを変える」

では