道中漂流記

将来の夢はそぞろ神

郷土史探訪📖

今回は実際行動していないので本マーク。

別に本を読んだ訳でもないが。 

概略

1,阿見神社の簡素な説明

2,これからの探訪の方向づけ

以上の2点について書き書き。

 

1,阿見神社

 阿見神社は、先日述べた楯縫神社と並んで旧信太郡の二大拠点となった神社とされている。阿見町の名前の由来もここからであろうう。阿見町の竹来に鎮座しており、三間社流造りで神社の周りを森が囲っている、いわば鎮守の森である。祭神は武甕槌命、普都大神、天児屋命であり、鹿島神宮の傘下のようなものであるが、武甕槌命以外の神も祀っている訳ありな神社である。因みに天児屋命春日大社の権現である。

 ところで、この阿見神社は阿見町に2つ存在しており、もう片方は阿見町中郷に鎮座している。そちらの阿見神社は参道が非常に長く、竹来の阿見神社よりも規模が大きい。竹来のそれが、

 

阿弥神社の創建は六〇七年、推古天皇(五 九三~六二九)の年代と伝えられる。創建 当初より社格の高かった神社であり、この 神域を取囲む日本杉の荘厳な樹叢は植樹期 に関する確かな文献はないが、伐採した切 株の年輪から推定すれば三〇〇年以上の歳 月を経ていることは明かである。しかも千 数百年の昔より、守護神として郷土の人び との信仰の的となってきた阿弥神社の尊厳 をいやがうえにも支えてきた貴重な樹叢である。

 ふろむ社頭案内板

 

という曖昧な創建記述であるのに対し、中郷のそれは

 

創建は和銅元年(708年)。

崇神天皇18年(紀元前80年)、豊城入彦命崇神天皇の勅命による東国平定で当地に訪れた際、「皇祖の天下を経営せらるるや阿彌普都、実に能く天業を補弼せり、其神功成るに及びて天に還りしと、蓋し是地に於てするや」と常陸国風土記に記された普都大神の事蹟を偲ばれた。この御言葉が信太郡阿彌郷、ひいては阿見町の由来になったという[2]。この伝承を縁故として、和銅元年(708年)に祠を建てて皇子を祀り、阿彌神社と称した。

 ふろむwikipedia

 

 という抜け目なくはっきりとした創建の記述である。また、中郷の阿見神社は、祭神として豊城入彦命を祀っており、もう片方とは異なる。因みに豊城入彦命崇神天皇の息子である。となると、何かおかしい。より古い竹来神社が創建されたのは607年、しかし、豊城入彦命が、普都大神の仕事を評価した時は紀元前80年であり、大きなタイムラグが発生する。というのは、信仰心を具現化した神社という装置が機能する凡そ700年以前から伝承が存在していて、且つ統治が目に見えるほど浸透していたのである。じゃあその普都大神の統治は神社が創建される前の700年の間、その威をどうやって維持していたのか。

 私は、このたいそう適当な年代設定の真偽はさておき、普都大神による統治体系の維持が装置無くしてどのように遂行されていたのかに興味を抱いた。というのも、信太郡の2社の辺りには、特徴的な原始信仰の陰が見られないからである。(若しくは私が見つけられていないだけ、霞ヶ浦がそれなのか?)

 例えば、諏訪大社なら、大社の信仰に混同されたミサクチ神を祀るモリヤ山が存在するし、宗像大社もそのような歴史がある。

 

2,これからの探訪の方向づけ

 

以上より、統治の維持についての発見が今後の探訪のゴールであろう。ただ、余りにゴールばかりを追っていても、達成は遠くなるばかりなので、まずは未だ知識が足りていない2社の祭神とその祭神を祀る豪族について調べてみることにする。そこから、信太郡の支配者やその支配圏が分かれば、まぁ十分な成果だろう。

 

それでは